左手には白いサンダル

やはり、学生と社会人とでは

時間の使い方や生活リズムが異なります。

 

 

よく言われている事ですが、

学生は時間はあるが、お金がない

一方、社会人は時間はないが

お金は多少ある、という違いがあります。

 

社会人になった当初は、残業はほとんどなく

学生の頃より時間を持て余している感覚がありました。

そのため、このような日記を始めることにもなりました。

 

しかし、先日大学の後輩と遊んだ際に

やはり時間が足りないと感じる場面があり、

私の時間感覚が変わってきていることを感じました。

 

時間感覚の変化自体に対しては、

社会人という新しい世界に属したのだ

という程度の認識で、特に思うことはありません。

 

ただ、学生というこれまで属していた大きな世界を離れ

彼らと共に過ごしていても、同じように時間を過ごすことができない

ということに、少し寂しさを感じました。

 

もう、計画無しになんとなく声をかけて

夜中まで話し込むということが、難しくなってしまいました。

 

何をするにも、早めにスケジュールを立てたり

翌日のことを考えて行動する必要があることに、

生活における、ひとつの自由度を無くしたのだ

と感じました。

 

これからはもう、

気心の知れた友人たちと突発的に出掛けたり、

夜明けの海を見ることは無いかもしれません…

 

 

 

能動的三分間

気になることがあると、すぐ調べる性格なのですが

ふと危機感を覚えました。

 

これは一種の思考停止ではないか。

 

 

スマホの普及と検索機能の進化により

私達は、どんな情報にでもすぐにアクセスできるようになりました。

 

そのおかげで、これまで知らなかった知識を得られるわけですが、

その知識の中には、少し考えれば分かることも含まれています。

 

また、情報が簡単に得られるため

印象が薄く、記憶に残らないことが多いように感じます。

 

このように、考えること、覚えることを怠っていることが

頭に良くない影響を与えているような気がします。

 

いずれは、言われるままに動くロボットのような

人間になってしまわないか、不安になりました。

 

 

気になることがあれば、なぜ気になったのか

その違和感を探し、少し立ち止まって考えることを意識したいと思いました。

長雨の晩夏

最近は夜も涼しくなってきました。

 

梅雨の名残も乾かぬうちに

しとしとと、秋雨の気配がします。

 

私事に関連して、気象学をかじる機会があり

天気の移り変わりや、季節の節目を

よりはっきりと感じられるようになりました。

 

夏に猛暑をもたらす太平洋側の高気圧が南へ引き、

代わりに大陸側の冷たい高気圧が張り出してくることで

日本上空に、いわゆる秋雨前線が停滞します。

 

つまり、8月下旬に台風でもない長雨シーズンが始まった時、

もうすぐ夏が終わるということです。

 

 

私は、一日一日を大切に過ごしたいので

季節の節目なども意識して生活したいと思っています。

 

以前も少し書きましたが、

自然のペースに逆らわず、うまく流れに乗ることで

日々をストレスなく過ごせると考えています。

 

夏という季節は、道端に咲く花も含め、

なんだか生命力が溢れているような気がします。

 

これらを肌で感じるため、

私は季節ごとにやりたいことを持っていますが、

今年の夏はなんだか中途半端になってしまいました。

 

一番惜しまれることは、蜩の鳴き声を聴くことができていないことです。

 

夏の間にやりたいこと、というのにこだわりがあり、

昨年などは、わざわざローカルの単線列車に乗って

田んぼの向こうの山間に日が沈むの見ながら蜩の鳴く声を聴きに行ったほどです。

 

夏に限りませんが、季節ごとに自然が見せる表情は変わるので、

これをできるだけ感じ取りたいと思っています。

 

そうすることで、私は今、この時を生きているのだという実感が持てます。

 

 

さて、日も短くなり、秋の足音が聞こえてきますね。

 

私にとって、秋のテーマは「豊穣」です。

 

以前は「枯葉」というイメージが強く、寂しいものに感じていましたが、

グラズノフの作品、バレエ「四季」にある「秋」を聴き

秋は夏の生命力をいっぱいに集めた果実の収穫の時、というイメージに変わりました。

 

このような秋の一面を見つけ、目一杯楽しむため

本格的な秋になる前に、やりたいことをまとめておきたいと思います。

 

 

 

 

たった一度の不可逆な瞬間

社会人になり、生活に関わる様々な書類の処理が増えました。

 

役所にも何度か足を運び

社会の仕組みを少しだけ、理解したつもりになっています。

 

大人になったことを実感する瞬間のひとつでした。

 

 

ところで、知識や経験に関して

知らない、やったことがない、行ったことがない

見たことがない、ということは

 

ある意味で貴重な財産なのではないか

と思います。

 

というのも、そこには

これから新しいことを知る、経験するという喜びがあり、

刺激を受け、感動する余地が残されているからです。

 

もちろん、様々なことを経験して得られる知見により

人生はより豊かになるだろうし、

知っているからこそ、新たな感動を得ることができる場面もあるでしょう

 

しかし、ある出来事を一度経験することにより、

そこには一つの固定観念が生まれるでしょう。

 

それにより同じ出来事からは、一度目のような

強烈な体験をすることができなくなります。

 

これは、物事の言語化においても同じことが言えると思います。

 

本を読んだり、先人の話を聞くことで

ある物事に名前がつけられます。

 

このとき、言語化されることで

自分の中で、ある物事は形を持ち、明確なものとなります。

 

しかし一方で、意味が限定的になることで

言語化の際に、その言葉では表せない

何かが失われることになると思うのです。

 

 

 

・・・2つの話が混在してしまいましたね。

 

どちらにおいても

まだ知らない、経験していない、言葉にできない

 

ということは

 

将来、これらが確かな形となる

一度きりの感動を得られる貴重な状態なのではないか

 

と、思います。

 

その瞬間はおそらく一度きりで、知らなかった頃には二度と戻れないのです。

ファストシーズン

台風が過ぎ去り、すっかり夏です。

 

新しい季節が来るといつも思うのですが

昨年買った洋服はどこに行くのでしょうか。

 

毎シーズン、服が無い、服が欲しいと

あたふたしてしまいます。

 

できれば、良い服を長く着る

ということを実践したいものです。

 

 

ところで、1年を通し季節は巡りますが

 

この季節に対し、私としては新しい

向き合い方を発見しました。

 

それは、

「季節を使い捨てる」という向き合い方です。

 

私は、暮らしの原則の1つとして

瞬間を大切にすることを心がけていますが

 

毎年巡ってくる季節を

ファストファッションのように使い捨てる

という考えが浮かびました。

 

これは、まだ浅はかな考えですが、

使い捨てるとは

その言葉通りの悪いイメージではなく

 

一瞬一瞬を味わいつくし、

十分に満喫しきって次の季節を迎える

 

というような意味合いで捉えています。

 

おそるおそる宝物に触るように

季節を過ごすのではなく、

 

がむしゃらに楽しみ尽くす

という季節への向き合い方は

 

相反しているようで同じ方向を向いている

のではないでしょうか。

 

 

社会人なので、もう長期休暇はありませんが

 

今年の夏は、こんなことを頭に置きつつ

過ごしてみようかなと思いました。

生活リズムの3原則

私は欲張りなので、お休みの日でも

無為にぼんやりする時間は作りたくありません。

 

といっても、もちろん

疲れているときとか、自分で決めてぼんやりしていることはあります・・・

 

お休みの日には

あれをやろう、これをやろう

ということをいくつか用意しておきます。

 

部屋の掃除であったり、買い物であったり

気になっている映画を観たり、とか。

 

そこで、これらをどの順番でこなしていくか

ということを朝一番に考えるのです。

 

 

何事にもやるべきタイミングというものがあり、

それは自分の気分だけでなく、周りの環境にも依ると思います。

 

これは、お休みの日の活動にも同じことが言えるでしょう。

朝やるべきこと、とか

寝る前にやる方が良いこと、とか

ぼんやりと意識することがあると思います。

 

お盆のお休みで、

やるべきタイミング、順序は3つの基準で決めることができるのではないか

ということを考えました。

 

 

1つ目の基準は時間

すなわち朝、昼、夜という区分に分けることです。

例えば

洗濯物は朝、買い物は昼、日記は夜

という感じでしょうか。

 

この区分のルールとしては

身の回りの整頓は初めに、

インプットはその後、

最後にアウトプット

 

といったところです。

 

2つ目の基準は、静と動

これは、一日は静の状態に始まり、動へと変化し、また静へと帰結する

という捉え方から展開したものです。

 

曖昧に、外出や運動といった活動を間に持ってくることで、

一日にメリハリがつく、ような気がするだけなのですが。

 

 

 3つ目の基準は、作業の関連性

これは単純に、似たようなことは一度にやってしまおう

という考えです。

 

似た作業を並べることで、

始めの勢いそのままにサクッとこなすことができるのです。

 

作業にも慣性のようなものがあり、

一度始めてしまえば、どんどん先に進んでいくことがあると考えています。

 

 

これらの基準は、もちろん私の感覚を言語化しただけに過ぎませんが

自分の中に明確なルールを持つことができ、満足しています。

 

せっかくのお休みなので、何をどうしていくか

きっちり決めてきっちりこなすことは、気持ちがいいものです。

 

思い残すことなく平日に向かいたいですね。

 

 

 

P.S.

お休みの間に、富士山に登りました。

とても素敵な朝日を見ることができました。

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富士山 山頂付近にて

 

ひといきつきながら

時の流れの中で、変わるものと変わらないものがあります。

 

ところで、時間に対して空間

つまり、場所が違えども変わらないものがあります。

私の経験上の一例ですが、

学生の頃、バックパッカーとしてカンボジアを訪れた際

風土は違っても、人の生活の根底には同じものがあると感じたことを覚えています。

 

話を戻して、

 

世の情勢や文化、年齢の変化に左右されない

変わらないものとは何か?

 

一生を通して不変の観念は存在するか?

これが私の最近のテーマです。

 

この問いの答えは間違いなく「存在する」でしょう。

ただし、それが何かは明らかではありませんが・・・

 

たとえば、豊かな人生を送るためには、

誠実でいること、自分の生き方に原則を作ること

周りへの気遣いを忘れないこと、健全な心身を持つこと

このあたりは間違っていないし、変わることはないと考えています。

 

しかしこれらは、根底にあるもっと本質的な事を

言葉を変えて表現しているだけであるような気がするのです。

 

それが何なのかは、当分分かりそうもありませんね。

 

ただ、なんでもない毎日を大切に過ごすことが

今の私にできる、確かなことだと思います。