人生の正午

ここ数年、自分はもう流行の中心にはいないのだなと感じることが多いです。

 

というのも、テレビやネットでの流行り物を知らないばかりか、

知ったとしても、どこか遠くの国の話のように思えるからです。

 

流行は、雑誌やネットによってある程度操作されうるものですが、

それに目敏く飛びつき、楽しみ、周りへ伝播させる人々によって

形成されるものだと考えています。

 

したがって、世の流行を作るのは

やはり高校生や大学生くらいの若者なのではないでしょうか。

そういう意味では、私はもう若者の枠から外れているのだと思います。

 

一方で、絶えず変化し続ける世の中に対し

興味を失いつつあることは危惧すべきことであると思います。

 

自分の所属する社会において、自分がどういった立場にあるか

ということは、意識する必要があると言えるでしょう。

 

この努力を怠った時、

私は地上に居ながらにして、浦島太郎になってしまうかもしれません。

あるいは、もうすでに・・・

 

このように考えると、私のような年代の人間には

 

流行の中心からは一歩引きつつ、

適度な関わりを保つことが必要なのではないでしょうか。

 

 

社会を回す側の人間として、世の中とどのように付き合っていくか

しっかりと考えなければならないと感じています。

 

私という人間が最も輝きを放つ時代はすでに過ぎ、

人生の黄昏時が静かに近づいてきているのかもしれません。

 

死へと向かう後半の人生を如何に過ごすか。

これは大変な問題です。

520円の特殊解

読書は人生に深みを与えてくれます。 

 

紙面上に広がるインクの染みには

一つの世界があり、一人の人生が詰まっています。

本を読むことは、一人の人生の軌跡を辿ることでもあるのです。

 

わずか200ページに濃縮された人生は、

この世を生きる意味の解答例を示し、

実体験には及ばずとも

私の人生に明確な変化をもたらしてくれます。

 

 

これまで知らなかった感情を自覚したり

言葉にならない胸の内のもやもやを言語化してくれます。

そうして、世を渡り行くための道具を示してくれるのです。

 

これらをゆっくり自分の中に落とし込み、体の一部とすることで

一つ高い視点に立ち、この世の真理に臨むことができると思います。

 

読書を通して、無数の先人の知恵を得ることができることは

今の世を生きる「若者」の特権かもしれませんね。 

 

太陽と萌動と夜

学生の頃から、日が昇る頃に起きることを心がけています。

 

天気がいい日などは、とても感動的な朝焼けを見ることができ

思わず写真を撮ってしまいます。

 

日の出の少し前に起きたときは

じっと外の様子に意識を向けます。

 

日が昇るにつれ、ゆっくりと空気が温まり

大自然の目覚めのようなものを肌で感じます。

 

科学的なことは詳しく分かりませんが、

早寝早起きは良いことがいっぱいあると思います。

 

なにより、心に余裕ができます。

 

早起きをすることで、朝の時間にゆとりができます。

 

身支度の時間に、プラス10分でもあるだけで

心持ちは随分と違ってきます。

 

といっても、朝から何かに没頭するわけではありません。

 

気持ちを落ち着け、部屋を見渡します。

 

散らかったものを片付けたり、服をたたんだりします。

 

この一手間を私は大事にしたいと思っています。

 

部屋がきれいというだけで

なんとなく気分もすっきりしますし、

 

いつもより行動力がアップするような気がします。

 

とはいっても、夜になると

一日の疲れもでてきます。

 

夜は、日付が変わる前には床に就きたいものです。

それは眠くなくても、です。

 

なぜなら、

夜の一時間より、朝の一時間の方が

有意義に過ごせると考えているからです。

 

もちろん根拠は無いですし、

自分でちゃんと検証したわけでもありません。

 

でも、

朝、日が昇るとともに起き、

夜、日が沈むとともに眠る。

 

この活動のリズムは、人間、ひいては生き物として

とても自然な生き方なのではないでしょうか。

 

自然のリズムに抵抗せず、身を任せるように過ごす。

 

あいまいな考えですが、

それが一番いい気がするのです。

 

 

死者の行進

自分の人生を生きるということは、

実はとても難しいことなのではないでしょうか。

 

ただ漫然と日々を過ごすことは

生きているとは言えないと考えています。

 

漫然とした生活には、自分の意志は無く

ただ時の流れに身を任せているだけに過ぎないのです。

 

意志の無い生活は、死んでいないだけで

生きているとは言えません。

 

これだけなら、そんなに難しいことのように思いませんが、

ここでいう意志とは、持論ですが

自分の内側から湧き上がる、何者にも侵されない意志

と考えます。

 

すると、意志のある生活というのはかなり限られたものになります。

朝はやく起きて通勤すること

会社で仕事をすること、あるいは学校に通って勉強すること

翌日に備えて早く寝ること、そのために寝支度を整えること・・・

 

これらは私の定義では自分の意志では無いと考えています。

というのも、これらは会社や学校といった

他者の影響を受けて変容した意志だからです。

 

こういった観点で考えると、

私達は日常的に、社会や他人といった

外的要因に意志を左右されている

と言えると思います。

 

こうなってくると

朝、服を選んだり、

おめかしすることさえ、自分の意志と言えるか

怪しくなってきてしまいます。

 

なぜなら、私の場合ですが、

人に会う予定がなければ

わざわざ身支度を整えたりしないからです。

 

頼まれごと、仕事としてやらされていること

これらは、本当は私じゃなくてもできることです。

私じゃなくてもできる、とは、

そこに私の価値は無いということです。

生きている意義がない。

それは、死んでいるのと同じではないでしょうか・・・

 

生きるとは、自分の意志で行動すること

 

私は、この考えにたどり着いたとき、

もっと生きる努力をせねば、と思いました。

 

それはつまり、主体的に考え行動すること

もっと簡潔に言うと

やりたいことをやる、ということになるでしょう。

 

極端かもしれませんが、

やりたいことをやってるときしか、私は生きていないのです。

 

会社で働いている時間、私は死んでいます。

それは、働くのが嫌という話ではありません。

それもまた、生きるために必要なことなのです。

 

自分の人生を生きるためには、

なるべく死んでいる時間を少なくし、

やりたいことを全力でやる、ということが必要だと考えています。

 

やりたいこととは、自分にしかできないこと

 

自分が心からやりたいと思うことです。

 

そして、より自分の人生を生きるためには、

外的要因が加わった自身の意志を

どれだけやりたいことに近づけられるか

ということではないでしょうか。

 

ここまで、小難しいことを述べましたが

自分がやりたいと思っていることが

本当に自分の意志によるものか確かめる方法はあります。

 

他人から理解されないもの、

他人からみて、何の効果、利益のないもの

時間の無駄だとさえ言われるもの

 

これこそ、自分自身の意志であると言えるでしょう。

他人からの批判をものともしない意志

そこに外的要因の入り込む隙があろうはずもないからです。

 

ただ時の流れに頭を垂れ、

死んだように歩み続けることを

私はしたくないのです。

 

 

 

 

二十億光年の糸

人類の最も偉大な発明は、数と言語だと思います。

 

ひょっとすると、ある意味では数も言語の一部であると言えるかもしれません。

それは、数の表現には1,2,3という記号

もとい文字での表現が必ず一緒だからです。

 

そうすると、より差別化すると文字と言語、と言えるでしょうか。

このあたりはまだ自分の中でもはっきり結論を出せていません。

ともかく、この文字と言語というものはとんでもない発明だと思うのです。

 

例えば、自分の考えを他者に伝える時に言葉を発します。

言葉という音の連なりが空気を振動させ、他者の耳から脳へと伝わり

その脳の中で意味のあるものとして再形成されます。

 

単なる空気の振動の連なりにすぎないもので、

私達は意思疎通を可能としているのです。

 

動物も意思疎通の手段として言葉を使います。

それは、鳴き声や身振り手振り(ボディランゲージ)といったもので、

単純なやり取りしかできません。

 

そこに言語という、音に複雑な連なりを持たせることで

言葉の表現の幅は途端に広がります。

 

人類がここまで高度な知能を持ったのも、

言語によって、複雑な意思疎通ができたからかもしれません。

 

さらに記号というある種の「模様」を言語と結びつけることで

文字として意味を持ちます。

 

文字のすごいところは、いつでも、どこでも

見るだけで意思疎通が為されるということです。

 

文字を通して、言語は時間と空間の制約から解放されるのです。

 

数百年前に書かれた文字が現在へ伝わったり、

たった今世界のどこかで書かれた文字が、すぐ手元で見ることができる。

 

過去との対話、地球の裏側との対話

一見、物理法則に反しているとさえ思えることが実現するのです。

 

これは生き物としての限界を超えているのでは、と感じます。

個体としての生き物では不可能であることを、文字は可能にするのです。

 

こうして今私が綴っているこの日記のようなものも、

私という存在が消えた後でさえ、残り続けるかもしれません。

遠い未来、途方も無い距離の先に私の意思を伝えることも可能なのです。

 

50年後、100年後には、今は輝く星の一つでしかない火星で、

誰かの目に触れるかもしれないのです。

 

 

それは過去と未来、地球と火星の対話とでも言えるのではないでしょうか。

 

大げさかもしれませんが

過去にも未来にも、この宇宙のどこかに

逢うべき糸があるのかもしれません。

 

 

人生にスパイスを

年齢的にはもうすっかり大人、という歳になり

いろんな場面で保守的になってしまいます。

 

それはちょっと大きな買い物を考えている時とか

これまでやったことのないことに挑戦する時とか、

なんだか危ないことをやってみようとする時です。

 

保守的になってしまう理由はもちろん、

この選択で間違いないか、自分に害は無いか、損をしないか。

そんなことを先回りするように考えてしまって

まだ起きていない悪い事に囚われるからではないでしょうか。

 

こんな私でも、歳を重ねるごとに少なからず知見を得て

拡がった視野の分だけ、いろんな想像をします。

 

当然、できるだけ悪いことが起こらないような選択をします。

 

運が良ければ何事もなく、期待通りの良い結果が得られ

私は満足するでしょう。

 

運が悪ければ、失敗して手痛い思いをすることもあるでしょう。

それから、「あっちにすればよかった。くそ~!」と後悔します。

運ではなくて、自分の選択に誤りがあったならフィードバックします。

 

そして、次こそは間違いのない、無難な選択をしたいと思うのです。

 

 

しかし、無難な方ばかりを選択する人生って、どうなんでしょう。

・・・いきなり話が飛躍してますね、精進します。

 

 

この選択とフィードバックの積み重ねにより、極端な話ですが

何もかも自分の想定通り、自分にとって悪いことなんてほとんど起きない。

それは、人生という長いスパンで考えた時

満足のいくものなんでしょうか?

 

私はつまらないと思います。

前記事とも少し関連しますが、

豊かな生活には刺激が必要だと思うのです。

 

刺激とは、思いがけない出来事によって

良くも悪くも心を動かされる事です。

心を動かされる事で、何か大きなものの一端を垣間見ることができ、

少しだけ生活が豊かになるような気がします。

 

もちろん、慎重な選択をして

想像通りの結果が得られることで

大きな喜びを感じるのも事実です。

 

しかし、想像以上に良い結果が得られたときには

より大きな喜び、感動を覚えるでしょう。

 

これと同じように、想定外のことが起きた時でも

私は心を動かされると思います。

真逆のベクトルではありますが、大きな感動を得ているのではないでしょうか。

 

それはとても辛い気持ちになるかもしれませんが、

感受性を豊かにしてくれる大切な経験なのだと思います。

 

 

範馬勇次郎も言っていましたが、

安全で体にいいものだけを摂ることが、はたして健全と言えるのでしょうか。

 

自分にとって悪い出来事さえも、人生という長いスパンで考えるなら

それはむしろ貴重な経験になると思います。

 

要するに、酸いも甘いも噛み分けるということが

人生に深みを与え、豊かなものにしてくれるのではないでしょうか・・・

 

 

 

こんなことを考え、

日々、ちょっとした冒険をしようと意識しています。

 

その日その日では、大きな変化は感じられませんが

いつか人生の隠し味として現れてくれることを、期待しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

取りこぼしなく

歳のせいか、怠慢なせいか

どうも物忘れがひどいです。

 

有名なジャネの法則の通り、人生ももう折り返し地点に来ているのか

どこか既視感のある生活を送ることが多いです。

 

単に歳や既視感のせいだけではなく

周囲の出来事に対して、鈍感になって来ているような気がします。

 

 

毎日、なにかしらの新しい出来事があり

それに感動を覚える場面もあるはずなのに

 

日が変わると途端に色褪せてしまうことが

とてももどかしく感じています。

 

このもどかしさの理由を考えてみました。

 

 

私の人生の目標の一つに

楽しい人生を送る

というものがあります。

 

なぜこんな目標を立てているか、は別の機会で書くとして

 

楽しい人生を送る、とは

そのまま、人生を楽しむこと

 

より短期的には

日々の生活を豊かに過ごすこと、と同義であると考えています。

 

豊かに過ごすというのは、金銭的なことだけではなく

その根幹に、自分がやりたいと思うことをやる、ということを含んでいます。

 

やりたいことをやる

これが人生を楽しむことそのものであると考えています。

 

そして、やりたいことが多いほど

すなわち自分が興味を持つ対象がたくさんあるほど

もっと楽しく、もっと豊かに過ごすことができると思っています。

 

この目標を達成するためには、

興味をもつ対象を増やすことが必要になるでしょう。

そのためには、やはり多くのことを体験し

自分の中に吸収していくことが重要です。

 

それなのに、体験したそばから忘れていってしまう。

こんな状態では、自分の目標へと向かっていないため

私はもどかしさを感じているのだと

考えてみました。

 

 

日々の生活から受ける刺激に対して、

できるだけ取りこぼしなく、何かを吸収し

この世の本質みたいなものを知りたいのです。